愛情や親切は、送り手が注いだつもりでも、受け手は必ずしもそのとおりに感じない場合があります。
愛情を示したつもりが、逆に取られてしまうことは決して珍しくありません。男女、親子、友人関係で、愛情・友情の取り違えは、しばしば起こります。
誤解を問いただすことまでする勇気はありませんから、なんとなくギクシャクしたり、誤解から関係がこじれたり、感情的なトラブルがよく発生しますね。
受け手側が、自分は相手から「豊かな愛情を得られた」と感じると、相手に対して素の正直な姿を見せたり、意見や考えを伝えることができます。豊かな愛情を感じる相手には、へんな気遣いはいらないですから、「ありのままの〜♪姿みせるのよ〜」となります。
2014年のアナ雪ですね。
相手に素直でいられるだけでなく、何より自分の感覚や行動に素直であれます。
一方、この相手との間には豊かな愛情を感じられない(信頼できない)と思うと、「ありのままの〜」はとても難しくなります。「ありのままの〜」をしたら、きっと相手は受け入れてくれないかもしれないからです。
恐れや不安が発生するので、愛情とは逆ベクトルになります。
一般的に、赤ちゃんから幼児の間にしっかり親の愛情を感じて育ってきた子供は、自立心が育ちます。それは、自立しても帰るところ、受けいれてくれる存在がいるからです。
大人になると、これは親子関係の精神的自立の公式に当てはまります。
結婚し所帯が別になっても、実家に帰ったり親と関わるときにストレスを感じてしまう人は、実は精神的な自立が育っていないのかもしれません。すると、関わりを避けようとしたり、その場だけ都合よくあわせて付き合い、自分の家に帰るとぐったり疲れたりします。
精神的自立とは、血縁関係は事実としても、相手と自分を、それぞれの役割を越えて、ひとりの人として尊重できています。精神的自立をしていないと、年令が上がったり環境や時代が変化したのに、以前からの役割・役回りで関わろうとします。
50代のOさんは、父親が他界してから、しばしば母親の家に行くようになりました。しかし、子供のときから注意の多い母親からあれこれと指摘されると、ぐったり疲れてしまうそうです。
そして、自分の家に帰るとその疲れでぐったりし、家が散らかり片付けられないと言います。
(ちなみに、心の中に矛盾があるとき、部屋が片付けられなくなります)
Oさんのお母様のお考えを拝見すると、来たければくればいい、とOさんに対して何か押し付けがましいものはありません。
しかし、Oさんは、母親なのだから、行かなければいけないような義務感をずっと持ってきています。実はこの手の裏腹な行動は、相手から不本意な言動を受けとってしまう原因となります。
さらに、Oさんは、心の中では、いろいろと細かい過去のわだかまりを母親に対して抱いていますが、それを言ったことはありませんし、言ってはいけないものだと、閉じています。
一見すると、大人しく内におさめている姿は、大人にみえるかもしれませんが、むしろ、これは大人のふりをしている子供心です。
Oさんの原因を探ってみると、結婚して間もない20代の頃、当時の義母や小姑さんに対して、気を遣って我慢している姿が視えてきました。そのことが、実の母親への怒りや不満にすり替わっていました。守ってくれるべき人が守ってくれなかった、という解釈なのです。
「まだ小さかった子供をつれて、実家に3度帰ったんですが、母は一度も家に入れてくれなかったんです」と当時のことを思い出されたようです。
母親からすれば、家に入れることが、Oさんを甘やかしてしまい、嫁ぎ先でうまくやっていけなくなるという愛情のつもりだったのでしょう。が、Oさんには、とてもそうとは思えなかったようです。
当時、我慢していたのに、母親にそのことを言わず終いになっていることが、母親への執着(=甘え)になっていました。
カラクリがわかると笑えるOさんでした。
愛情を十分に受けていないと思うがゆえに、素の自分の感情を出してはいけないと思うようになります。そして、自由に素の自分を出してくるような人には、我がままだと感じて抵抗感を感じるのも常です。
「ありのままの〜」は、その人のおかれている環境や人間関係によって、受け入れられない場合もあります。
が、自由意志で生きてよいのであるなら、「ありのままの〜」はもっともパワフルです。