猛暑になって参りました・・・そろそろ涼しくな~るお話の季節です
一生のうちには、「自分のせいだ!」という罪や、十字架を背負ってしまうことがあるかもしれません。
特に人を傷つけてしまった、生死に関わることで命を救えなかった、見捨ててしまったのではないか、裏切った、自分のせいで相手を犠牲にした、嘘をついた・・・etc
ご自分の将来について透視カウンセリングを受けにいらしたTさん。
ひょんな話の流れで、「だいぶ前になりますが、友達を亡くしたことがあります」と。
話をもっと聴いてあげていればよかったのではないか。
すぐ連絡を取れば亡くならなかったのではないか。
自分のことを恨んでいるかもしれない(友達なのに力になりきれなかったことに)。
自分は薄情だったのではないか。
お友達は特殊な事情での他界ですが、Tさんに断続的に憑いているようです。
そのお友達の方のお名前を3回言っていただきました。
自然なケースで逝かれる方と違い、独特の暗さ、重さはあります。しかし、Tさんに対して執着が強いわけではありません。
さて、お友達の方から出てきた言葉は「恨んでいる」
霊的な存在は、とかく主語、目的語が抜けています(それが体のある人間の会話と顕著な違い)。
そこで、誰を何を・・・と尋ねていくと、学生の頃、若い頃に関わった人たち、クラスの友達などに対して、いじめに近いやりとりがあり、そのことを苦にしていたことが断片的に視えてきました。
「よく過去のいじめれたような話をしていました。で、よく飲んでましたね、今思うとちょっと中毒っぽかったかも・・・」とTさん。
いじめや人間関係の問題がトラウマやネックになっていると、そこに因果関係がおこり、その先の人生に長く影を落とすことになります。
そのようなトラウマやドラマを抱えた人(友人)の話を、ただ聞くだけでも、本来はとても大変なことです。
当時のTさんは、知らぬまに影響を受けてしまったのでしょうね。
Tさんは、お友達の一件以外にも、つい自分のせいだと、「わるいことをしたら罰を受ける」というい考え方をお持ちでもありましたので、同調しやすかったのでしょう。
Tさんの専門職上、理解力の高い方でしたので、はっきりお伝えしたことがあります。
「皮肉なことに、罪悪感を持っていたほうが楽なんですよ。それで自己を納得させられるから・・・」と。
もっともこの「納得」はエゴから発生しているので、やはり本人はお辛いのですが、ある種の責任を負わずに済むから「楽」なのです。
ある種の責任とは、たとえば、「自律」です。
罪悪感や十字架を背負う方は、とかく思い込みや特定の価値観の影響を受けやすい傾向にあります。
罪悪感・十字架というと重いですが、ようは「自分のせい」「何かのせい」という因果関係のドラマ・ストーリーを好みます。
ロマンチストだったり、情緒が豊かともいえますが、ネガティブに働くと、自分から苦労症やドラマにとらわれてしまうのですね。
相手やまわりの状況を一方的に解釈してしまうこともあります。
そんな方は、ぜひ現実的な視野を広げ、行動、アクションを取り、もっと広ーい世界、いろいろな人たち、考え方、感じ方、質の違いがあることを実感するとよいでしょう!
そう、罪悪感は人の内なる世界を縛るには、とても都合がよいのです!
ところで、ときに、罪の意識が顕在化しておらず、シラを切ろうとする人もいます。
こちらのパターンは明らかにエゴイストで身勝手なことを働いたときです。
それを否定したいのでしょうが、無意識は罪の意識を抱えています。
このパターンは、日本の古典的怪談にしばしば見られますね。
四谷怪談、番町皿屋敷・・・・お岩さんやお菊さんの怨霊が視えたり、声が聴こえるしまうのは、彼らに(はたまた黙認している屋敷の人々も)罪の意識があるからこそ、です。
サイキック的に霊現象を分析すると、そこに介在する人の心理が、怪談やオカルトと通じ合うエネルギーの経絡が視えて興味深いのです。
霊でなく肉体があっても、男女の情のもつれ、嫉妬、妬み、裏切りは、生霊(いきりょう)として、時間を越えて憑くようです。
そう、霊の存在は、3次元の時間と空間はフリーパスですから・・・