努力を伴うこと、辛さや苦しさが伴うことを、日常づかいで「修行」と呼ぶことがあります。


自分自身で「修行だから」と口にすることもあれば、身内や近しい他人の苦労を見て、「これも修行だね」という表現をします。



苦労を伴う経験と、「修行」にはいくつか顕著な違いがあります。

苦労や苦難から「修行」へと変容することもあります。



落ち着いた暮らしをして安心だと思っていた息子さんが、本人も苦しむようなトラブルを抱えており「これはどうしたものか」と、親であるMさんは悩まれています。



「以前に比べれば、息子はだいぶ落ち着いて暮らし、生活力もつきました。でも、問題を抱えるようなことが定期的にありますから、一体いつになったら本当に安心できるんでしょう?」


これに関してリーディングさせていただくと、


「それは(息子さんの)修行だから」とのこと。


意義ある体験であることがわかりました。



親という立場のMさんに対しては、

「親は、子供の修行を喜んでいい」

というメッセージが浮かんできました。


いわゆる「可愛い子には旅をさせよ」でしょうか。





長い介護生活に限界を感じた頃、お母様が旅立たれたというSさん。


「やれることはすべてやりきった」と、Sさんにとって悔いなく、またお母様自身も最期までよくがんばってくださったようです。


Sさんはお母様の実家の片付けを済ませた折、


「母はどうだったのでしょう?もう、思い残しや、、、家族に対して伝えたいことはあるでしょうか」

電話カウンセリングのいくつかのご相談の中で、お母様の話題になりました。



透視で拝見する画像と、実際のお姿と合わせることはできませんが、お若いときのお母様はとてもおきれいで、色白の印象を受けました。


続いてこんなエピソードも。


Sさんが結婚をするときに、このお母様はひょんなことで、いわゆる”わかる方”にSさんの縁談について鑑定してもらったそうです。


そこで、


「娘さんは苦労するかもしれないが、この縁談はまとまってしまい誰も止められない・・・娘さんの人生の修行だと思って嫁がせてください」

と言われたそうです。


ここで言う「修行」とは、Sさんにとって、たとえ人生のほかの選択が可能であっても、経験する道です。


本人の魂がもともと選択している類のものです。



修行とは、何人であろうと止められない・・・止めようがないのが特徴で、それは、本人の自由意志(魂)が選んだものだからです。



苦労と修行は、表面的には似ているように思えます。

物理的には、同じ経験を指している場合もあります。



しかし、修行となると、本人が納得する成果や合点のゆく節があります。


その成果は、他人から褒められたり賞賛されて得るかもしれない優越感や達成感とはまるで質が異なるでしょう。


他人や周囲からの感想や反応は、嬉しかったり共に喜ぶこともあるでしょうが、オマケみたいなものに感じられます。


また、苦労や苦難との大きな違いとして、修行のレベルになると、辛さや苦労はあまり感じられなくなります



先日、サイキックレッスンの生徒さんとお話ししているときに、この修行の取り組み方が話題になりました。


サイキックのレッスンを、日常づかいで実践していくと、ふだんの仕事のなかで「どうしようか」「この問題はどうしよう」と、これまで考えがちだったことが・・・それらを「学び」や「修行」と呼ぶなら、だんだん「愉しい修行」に変わってゆく、という内容のものが明らかになりました。

 

サイキックのレッスンのいくつかは、役に立っているようで立っていない雑念や、自分の実経験に基づいていない浅知恵や、協調や調和と勘違いしがちない常識などを見極めて取り除いていくわけですが、そうするうちにネガティブだと思い込んでいた苦労や問題や不満などが、修行として糧や産物に変わっていきます。

 

氣やエネルギーが精査されていくと、修行の次元が上がり、愉しくなったり、楽になったり、みずから工夫をしていくようになりますね。

 

わかりやすい修行の例として、自分で目的をもちコミットしたトレーニング、ダイエット、技、研究、開発、創作、試験や審査の合格なども「修行」の域と呼べるでしょう。

 

イヤだな、辛いなと感じる部分が多かったり、短期的な結果ばかりに力点を置いているときは、まだ初期の「修行」です。

初期のほうが、案外辛いという人もいるでしょう。

 

修行に磨きがかかってくると、かえって要領を掴んできて楽しくなってきたり、修行仲間と意気投合したり、修行を極める方法や有益な情報と出会ったりします。

修行の道にいると、不思議と道に迷うことなく、迷いかけても、道案内をする人に出会うものです。

これはほかの修行の道にいる人の場合もあります。

 

修行には停滞期がありますが、言い換えれば発酵期間や成熟期でもあり、当人は少々しんどさもありますが、それはいずれ乗り越えたり、ほかの道に通じるという方法で次の発展期につながります。

 

人生において修行の道を明らかに持っていると、志があるわけですから、ある意味、魂として恵まれた人生を歩んでいると言えるかもしれません。

修行の道があると、世俗の煩悩(強い煩悩=私欲 があると、実は生きるのが大変なのですが、生きることが大変になっていることに気付くのが遅いのも特徴)が緩和されるという、一見大変そうで、実は楽をしているというのも特徴です。

 

なんだか、にわか禅問答になりそうなので、ここら辺りで、修行を次元の観点から観察するのはストップしますね。

 

ちょっと日頃の考え方、感じ方においてご参考になれば幸いです。

  

サイキック・プライベートレッスン

知識として基礎・初級レベルのサイキックの学びと、ご自身のこれまでの人生や現状のあり方を具体的に照らし合わせながら、気づきを促し、理解を深めていきましょう。

基礎・初級とは、土台や基本であり、軸や要です。